6月24日
モスクワから深夜便で日本vsセネガル戦のあるエカテリンブルグへ移動。
(この旅の航空券情報はコチラ ⇨ ロシア旅|航空券情報)
エカテリンブルグはロシアの東西を分かつウラル山脈の中心都市であり、人口は150万人以上。モスクワ、サンクトペテルブルグ、ノヴォシビルスクに次ぐロシア第4の都市です。
あの初代大統領、ボリス・エリツィンの出身地でもあります。
モスクワからは直線距離にして約1,400kmの所に位置し、これは札幌~福岡間の直線距離と大体同じ。・・・ロシアってやっぱり大きいな。
早朝4時にエカテリンブルグの空港に到着した我々は、空港のベンチで5時間ほど仮眠。
仮眠というよりやや本気の眠りから目覚めると、空港内のカフェで朝の一杯。
ロシアでは「COFFEESHOP COMPANY」というオーストリア発のコーヒーチェーン店が沢山あり、ロシア滞在中に3回くらい行きました。
正直そこまで美味しいわけではない(小声)
上の写真は“RUSSIAN EDITION”なる飲み物。メニューの写真映えが良かったので頼んでみましたが、そのお味は・・・
なんか、森の味がする。
まぁこれだけ草とか実が入っていればね。熊とか出てきそうな森の味がしました。
空港からシャトルバスで市内へ行き、宿へ荷物を置いたり着替えをしたり、街中のレストランで食事をとったりして過ごした我々。日本vsセネガル戦のゲートオープンは17時、キックオフは20時です。
レストランで食事を取り終えたのが15時過ぎ。
(エカテリンブルグのレストランはこちら)
ねぇ、ちょっとでいいから、今から「血の上の教会」行かない?
もうすぐゲートオープンの時間だけどいいの?
うん、せっかくだし観光もしたい。
まぁそうね、金輪際エカテリンブルグに来る事は無さそうだしね。
こうして多くのW杯観戦客がスタジアムへ向かう中、その流れに逆行し「血の上の教会」へ向かいました。
坂道を上った先に、抜けるような青空をバックに血の上の教会は建っていました。
うぉおお光り輝いておるー!
2003年に完成した血の上の教会は入場無料、ただし内部の撮影は不可です。
教会の中では、女性は髪の毛をスカーフなどで覆わなければなりません。貸出し用のスカーフが用意されていたので、わたくしはそちらを借りました。
ではまだ新しいこの教会が、どのような経緯で建てられたのかを今日は語りたいと思います。
ロシアには「血の上の教会(聖堂)」(エカテリンブルグ)と「血の上の救世主教会」(サンクトペテルブルグ)がありますが。
この“血の上の”シリーズはどちらもロシア皇帝が殺された場所の上に建てられています。
では、エカテリンブルグの血の上の教会が建つ場所で殺されたのは誰か。
ここで殺されたのはロマノフ朝最後の皇帝、ニコライ2世一家とその従者達。
この時既にニコライ2世は退位しており、また罪のない5人の子供をも容赦なく惨殺したこの残酷な事件の真実は、長い間謎に包まれていました。
ロマノフ朝のラストエンペラー!
ニコライ2世ってどんな人だろう?
ニコライ2世とは、
日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。
ざっくり言うとこんな感じ。色々な文献を読んでみると、指導者としては正直あまり有能では無かったものの家族を愛する「家庭人」だったようです。うーん、生まれる家が違ったら良かったのにね。
ちなみにこのままWikipediaを読み進めていくと、青少年期の欄に
ニコライ皇太子は勉強熱心ではなく、授業中鼻糞をほじっていたという。
は・・・鼻糞・・・!
いや、それ書かなくてよくない!?誰だって暇な授業中、鼻糞ほじったり腕毛抜いたりするでしょうよ。少しだけ、ニコライ2世に親近感を覚えました。
で、そんなニコライ2世。
1917年のロシア革命(二月革命)により退位に追い込まれ帝位を弟ミハイルに譲ろうとするも、ミハイルがこれを拒否した為、ロマノフ朝は崩壊しました。
その後ニコライ2世一家は自由を奪われ、1917年夏にはシベリア西部のトボリスクへ、1918年5月にここエカテリンブルグへ移動させられ、商人の家であった“イパチェフ館”へ幽閉されます。
その頃、ロシア革命後に成立したボリシェヴィキ政権(革命派。レーニンとかはここ)は白軍(反革命派)とすったもんだしておりました(ロシア内戦)。そんな中、白軍と手を組んだチェコ軍が、既に退位した最後のロシア皇帝であるニコライ2世の奪還を試みエカテリンブルグへ近付くと。
「ニコライ2世を奪還されたら色々面倒くせーな」
と考えた政府は、ニコライ2世一家の処刑をロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人処刑隊に命令。こうして1918年7月17日に、ニコライ2世一家と従者は処刑されました。
処刑というより、ほぼ殺人事件だけどね。不意打ち気味だったし。
皇帝と皇后は即死でしたが、子供たちは身につけていた宝石を縫い付けた下着が防弾チョッキのような役割を果たし即死しなかった故、なかなか惨い最期だったようです。その残酷な殺害方法や遺体の扱い方の詳細は割愛しますが・・・。
皇帝に関しては可哀想だけど「まぁ皇帝だもん、仕方がないよね」と思えたとしても、皇女4人や13歳のアレクセイ皇太子まで・・・と思うと胸が痛みます。ずっと見つからなかったアレクセイ皇太子と皇女1名の遺骨が発見されたのは2007年。せめて、早く家族で埋葬されるといいですね。
ちなみにこのロマノフ家の処刑。
裁判にもかけず、法的な手続き一切無しに皇帝一家や従者を殺害した為、その残虐行為を隠蔽する必要が出てきました。
処刑の舞台となったイパチェフ館は1977年、当時スヴェルドロフスク州の共産党委員会第一書記だったボリス・エリツィンの命令で破壊され証拠隠滅。
ちょっと、エリツィン!!!
ソビエト崩壊後に出したエリツィンの自伝『告白』の中で、当時の様子を弁解しているようです。
もうすぐ夏休みだし、ちょっとわたくしも読んでみようかな・・・
そんな歴史を経て、2003年にイパチェフ館の跡地に「血の上の教会」が建てられました。
教会の中はとても静かで、熱心に祈りを捧げる人がいて、神聖な場所なんだなと思いつつも少し悲しい雰囲気がありました。入って右側に木製の十字架があり、その辺りで一家が銃殺されたそうです。
血の上の教会の横に、ロマノフ朝の歴史をたどる博物館も併設されているので、興味のある方は訪問してみて下さい。
我々はこれから試合だから!
というわけで博物館には行きませんでした。切り替え早くてすみません。
急いで日本vsセネガル戦の行われるスタジアムへ行かねばー!
ロマノフ朝終焉の地という証の、血の上の教会。
とても残酷な事件があった場所ですが、現在はエカテリンブルグの新しいシンボルとして観光名所になっています。この話を知って訪れるのは少々気が引けるかもしれませんが、ぜひロマノフ朝の歴史をたどってみてください。
フラム=ナ=
住所:ул. Толмачева, 34, Екатеринбург, Свердловская обл., 620075
定休日:なし
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