死ぬって何だろう?ガンジス川『マニカルニカー・ガート』の火葬を見て私が思ったこと

インド ガンジス川 旅の随筆
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2018.02.13(tue)インド旅行3日目

はい!今日は個人的に一番楽しみにしていた、ガンジス川の火葬場『マニカルニカー・ガート』でのお話です。「火葬場が楽しみ」と言うと、

ビジネスマン

おいおいコイツ、やっべーぞ

と思われかねないので表現を改めますね。一番興味があった、ガンジス川の火葬場『マニカルニカー・ガート』。そこで何を見て、何を思い、何を考えたかをつらつらと綴りたいと思います。
※ちなみにマニカルニカー・ガートの写真はありません!撮影禁止だからね

 

インド ガンジス川

私は今まで「死」の瞬間に立ち会ったことがなく、また親族の火葬に立ち会ったのは1度だけ。火葬炉から出てきた骨を見た時「ああ、人って骨だけになるとこんなに小さいんだな」と思ったのを覚えていますが、「死」やそれにまつわるアレコレを真剣に考えたことはありませんでした。

ガンジス川のガートでの火葬は日本の火葬場とは違い、火葬炉がありません。ガートの階段を下りた、ガンジス川に近い場所に薪を積み上げ、その上に遺体を寝かせる。そしてその上にまた薪を積み上げる。言ってみればキャンプファイヤーのような仕組みで遺体を焼きます。それが炉の中で行われるのではなく目の前で行われるので、火葬の一部始終が見えるのです。

私たちがマニカルニカー・ガートに到着した時も、ちょうど薪の上に遺体を寝かせ、その上に薪を積み重ね、火をつけ、火葬を始めたところでした。動かない遺体、積み上げられる薪、そしてそれらが燃えていく様をぼんやりと見ながら私が思ったのは、

「人間って物質なんだ」

ということ。正確には、死んで意識がなくなった人間(肉体)は、ただの物質なんだということ。

秋川雅史さんが「そこに~私は~いません~眠ってなんか~いません~」と歌っていたけれど、たしかにその通り。お墓の中にあるのは“その人だった物質の一部”だもんね。とは言え「俺の墓の前で泣くな!」と歌われても、私はきっと泣いてしまうと思う。そこに大切な人がいないと分かっていても、大切な人を形づくっていた物質があるというだけで十分愛おしい。

 

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まぁ、墓の前で泣く泣かない問題は置いておいて。
となると次に考えるのは、その人そのもの、いわゆる“魂”だとか“心”だとか“意識”だとかいうものは、一体何なのだろう?そしてそれは普段肉体のどこにあって、死ぬとどうなるのだろう?

“心”と言うとよく心臓の辺りにハートマークが描かれるけれど、実際に心臓の辺りの臓器で物事を考えたり思ったりはしないと思う。口には出さずに考えたり思ったりしている時の声のようなものは、どこかというとやはり頭の中で聞こえる気がする。一体全体、思考や意識というのはどういう仕組みなのだろう?

ふと、以前おっくんが教えてくれた『量子力学』の話が浮かんだ。

ちなみに量子力学という理論(学問?)は、普通の人が調べ出すと発狂しそうになります。凡人の私は発狂しました。とりあえず、量子というとんでもなく小さい奴が良く分からない法則(量子力学)であれやこれや色々している結果、私たちの身の回りの現象が起こっている、みたいな感じでしょうか。意味が分かりませんしこれで良いのかも分かりません。気になる人は自分で調べてね。

でもひとつ言えるのは、家での憩いの時間(夕食後の微睡タイム)に

おっくん
おっくん

この動画見て!量子力学をすごい分かり易く説明してる!

と量子力学の「り」の字も知らなかった私に、「シュレーディンガーの猫」やら「二重スリット実験」やらを踏まえて量子力学を解説をする英語動画を見せつけてきたおっくんは、相当エグいということ。私の憩いの時間を返して。

 

目の前の火葬を見ながらこんなことを思い出して。つまり意識とかそういうのは、人間の脳みその中の良くわからない物質というか量子というか、そういうものが何かして起きているのかもしれない。多分この辺りは「量子脳理論」とかそういった分野になるんだと思う。

そうなると、人間は死んだら実際のところどうなるのだろう。もし仮にその人そのもの、いわゆる“魂”とか“意識”みたいなものが量子的なサムシングだったとすると、死んだらそれらは脳から放出されてその辺にフヨフヨと存在し続けるのか。それとも完全に消滅するのか。

個人的に幽霊は信じていないけれど、ものすごく強い気持ち(量子とか何か)を持ちながら死んでそれがその辺に放出された結果、いわゆる心霊現象と呼ばれる現象に繋がるというのなら、それはゼロではないかなと思う。

 

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ちなみに「死んだらどうなるのか」というのは国や地域、宗教や時代によって考え方が異なる。

例えば目の前のガンジス川で火葬をしているヒンドゥー教の死生観は輪廻転生や解脱が核だし、パプアニューギニア・キリウィナ島の民族は「死んだら近所の島へ行って過ごし、そこで年老いたら脱皮して胎児に戻り、また元の島に新しい命として生まれる」と考えていたらしい。脱皮て…可愛いな、パプアニューギニアの民族。

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まぁ死について本気で考えると本当に怖いなと思ってしまうので、それらを紛らわせるというか生きる希望を与えるために生まれた宗教も沢山あるのだろう。
※宗教を否定しているわけではないので悪しからず。

え、だって怖くない?死んだら今生きている私の意識とか全部、無くなってしまう可能性があるんだよ?天国に行ってキャッキャウフフとか「生まれ変わっても君を見つけ出すから」とか、そんなその場凌ぎみたいなのはいらないんだよね。実際にどうなるのかが知りたい。でも考えれば考えるほど怖いし分からない。

 

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マニカルニカー・ガートの火葬を見て、私が最終的に行きついた結論は『精一杯生きる』。まぁ…あまり代わり映えのない考えなんだけどね。ただその考えに至る理由が「人間いつか死ぬし、いつ死ぬか分からないから、今を後悔しないように生きようぜ!」というものではなくて。

「肉体という物質と意識がある状態で生きている今は、他の人と言葉を交わしたり触れ合ったり、美味しいものを味わったり美しいものを見たり、なんか面白いことしたり笑ったり出来るけれど、死んだらそれら全てが出来る可能性は低いし最悪消滅するかもしれないので、なんていうか…フルで生きよう!」という理由から、その結論に至ったわけです。

自分が好きな人には好きって言うし、行きたいと思ったところには行くし、見たいと思ったものは見て、やってみたいと思ったことはやる。心と体と、そして自分以外の他者がいる環境で、自分を精一杯生きたいと思う。

そんなことを思った、マニカルニカー・ガートの火葬でした。

 

補足:量子力学(量子論)はスピリチュアル界でも人気のようですが、個人的に量子力学に興味はあってもいわゆるスピリチュアル系な考え方には興味がない&好みではありませんのでヨロシク!

 

<つづく>

 

(この記事は2018年2月のインド旅ブログです)

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