ひとりの日本人が築いた『ブルネイと日本の知られざる絆』

旅の随筆
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SAORI
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やほほーSAORIです

今日はブルネイのガイドさんから聞いた『ブルネイの発展に貢献したひとりの日本人』の話をしようと思います。

わたくしはこの話を聞いて、割とマジで胸が熱くなりました。と同時に、もっと沢山の人に知って欲しいな、とも思いました。最後まで読んで頂けると幸いです。

では!早速いってみましょう!

 

ブルネイの歴史(ざっくり)

大前提として、ブルネイ・ダルサラームは東南アジアにある国です。
人の名前とか、必殺技の名前とかじゃないからね。国名だからね。

このブログの読者属性は大きく『変態』『身内』『おっさん』の3パターンだとわたくしは思っているので(過半数が暴言)、多分皆さん、ブルネイが国名だとお分かりでしょうが。
万が一、このカオスな旅ブログに迷い込んでしまった子羊的ポジションの方がいたらと思うと、あまりに不憫でならないので解説しました。

 

先に進みましょう。

 

ブルネイの起源については正確には分かっていません。ブルネイに関する最も古い書物での記載は、971年にブルネイから中国(当時の宋)に対して朝貢を行ったという記録です。(恐らく4~5世紀には都市国家として成り立っていたであろう思われているそうです)

なんやかんや時は流れ、ポルトガルやスペインが植民地獲得の為に、アフリカからの東南アジアへ進出。ブルネイの隣国マラッカ王国がポルトガルの植民地になります。マラッカに住んでいた商人たちはブルネイに移り、ブルネイは貿易港として重要なポジションになりました。

ここから、ポルトガルやらスペインやらオランダやらがわちゃわちゃ絡んできます。

 

面倒なのでとばします。
※気になる方はご自身でお調べ下さい。

 

最終的にイギリスが全部かっさらって(雑)、1888年にブルネイはイギリスの保護領となります。

1926年に石油の存在が確認され、1929年に石油が採掘されます。1930年代には多くの油田が開発され、石油の生産量が大幅に増加しました。

その後、第二次世界大戦が開戦。
ブルネイを支配していたイギリスを日本軍が排除した結果、1942年から終戦までの約3年間、日本はブルネイを『ブルネイ県』として統治

 

SAORI
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日本がブルネイを統治していた時代もあったんだね

 

戦後は再びイギリスの統治下に戻ります。マレーシア連邦構想などもありましたが、ブルネイはマレーシアとの統合を拒否。しばらくイギリスの保護国のまま残留します。

その後、植民地政策に反対する世論の高まりにより、1984年にイギリスからの独立を果たしました。

 

以上、ざっくりなブルネイの歴史でした。
これから書くのは日本がブルネイを統治した1942年に、ブルネイの県知事に着任したひとりの日本人のお話です。

 

ブルネイ県知事 木村強さん

1942年(昭和17年)6月。

ブルネイ県の知事として着任したのが、木村強(きむらつよし)さん。当時日本は輝かしい戦果を挙げており、ブルネイでも木村氏の着任を国をあげて歓迎したそうです。

当時の様子を、木村氏はこのように綴っています。

王様をはじめ側近の人達は、我々日本人に対して、親近感を持って接触し、異国人という感じは毫(ごう)もなかった
「あゝボルネオ ブルネイ王に招かれて」

SAORI
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うん、なんだかブルネイ人の穏やかさが目に浮かぶね!

 

さて。ブルネイの王様や側近に丁重に出迎えられた木村氏は、王様から「何か希望はありますか?」と問いかけられた際、「ブルネイ人の秘書をひとり付けて欲しい」と答えました。

木村氏は、ブルネイを日本の国益だけを考えて占領するのではなく、ブルネイの発展にも力を注ぎたいと考えていました。その為に、共に行動してくれるブルネイ人が必要だったのです。

秘書となったのは、王様の弟。当時26歳だった王様の弟は、運動家で明朗闊達、頭脳も極めて明噺で愉快な青年だったそうです。

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なにそれ結婚したい!(安易)

こうして木村氏と秘書(王様の弟)、そして日本人の県庁委員10人足らずは一緒に仕事をすることになりました。

 

ちなみに世界中で戦争による植民地支配はある意味当たり前だった時代に、何故木村氏はブルネイの発展にも力を注ぎたいと考えたのか。彼は手記集でこのように綴っています。

私は、戦争に負けることは聊か(いささか)も想像したことはないが、仮に万が一期待に反するような結果になっても、日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたいという信念で、異民族の統治に当たったのであった。
「あゝボルネオ ブルネイ王に招かれて」

SAORI
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木村氏の信念が眩しすぎる!
今の我々はその恩恵に与っているんだな…

 

木村氏が県知事として仕事をしたのは1年間ほどの期間でしたが、その間に様々な貢献を果たしました。

例えば、ブルネイで天然ゴムが採れることに注目し、現地に工場を建てて雇用を生み出したり。

道路や電気、水道、通信などのインフラ整備を進めたり、現地の子供に教育の機会を与えたり。

『首狩り族』としてブルネイの人々からも恐れられていたイバン族(←本気で首、狩ってました)を度々訪れ、最終的にはイバン族とブルネイ人の融和を図ったり。

当時ジャングルに覆われていたブルネイの発展に尽力したのです。

 

SAORI
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ブルネイのガイドさんは、
『通常植民地になると奴隷として扱われ、労働力だけが搾取される』
『木村さんは違った』
『工場を建ててブルネイ人を雇い、きちんと賃金を払った』
と言っていました。

 

ブルネイ人の自尊心を傷つけぬように、そして現地の宗教を最大限に尊重し接する方針に、一部の人からは『生温い』という声もありましたが、軍司令部参謀等は木村氏の意思を尊重してくれ、現地の人々も協力してくれました。

僅か1年程の任期でしたが、木村氏がブルネイを去る時には送別会が催され、ブルネイ人の幹部が男泣き、それを見た木村氏も泣く、というなんだかもう、青春かよ!友情最高だな!みたいな図だったようです。

そしていよいよ出発の日に特別仕立ての舟で約一時間半ほど、王および弟(現在の王)、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。
「あゝボルネオ ブルネイ王に招かれて」

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1年間でここまでの信頼関係を築いたのね…すごい…

 

任期を終えた木村氏

ブルネイを去った木村氏は、マレーシアの州庁の総務部長や知事を兼任したり、混成旅団参謀付勤務を経て別の県に転勤しましたが、戦局の悪化・終戦により捕虜生活を送る事となります。

昭和21年に日本に帰国した木村氏は、ブルネイの王様や側近の人達に書簡を出そうと思ったのですが、マレー語や英語で書く事が苦手で書簡は書かず。それでも常に「どうしているかなー?」とブルネイを思い浮かべ、家族等と幾度も語り合っていたそうです。

日本で刑法などを勉強し検事として働き、退職後は裁判所の調停委員や選管委員長として多忙な日々を送っていました。

 

昭和38年3月5日の晩。炬燵でブルネイ時代の思い出や王様の消息、ブルネイの戦後の状況などを話し、「もう一度ブルネイに行ってみたい」などと夢物語りをしていた木村氏。

 

翌3月6日、思いもよらぬ書簡が届きます。

 

木村氏に届いた書簡には、日本の有力な商社の幹部がブルネイへ行った際、王様に

「戦時中木村という知事がいたが、彼は今どうしているか、会いたい」
「ブルネイに是非呼びたいが、何とかならぬか」

と頼まれた、という内容が書かれていました。

こうして木村氏は再びブルネイの地を訪れます。

 

22年ぶりの再会

昭和38年3月30日、木村氏は22年ぶりにブルネイの地を訪れます。2日間かけて総理大臣や副総理、官房長官兼大蔵大臣など、多くの人との会見をした木村氏。

4月1日、王様に会いに王宮を訪れます。

王様は二階の上り階段の所で待っておられ、にっこり笑って手を差し出し「二十二年の昔になりましたね」と堅い握手をし、いかにも逢えて嬉しい満足そうな表情をされた。
 「あゝボルネオ ブルネイ王に招かれて」

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なにこれタイタニックのエンディング!?

 

わたくしの変な合いの手で感動の再会が台無しですが。その時の情景を思い浮かべるだけで、自然と涙が出てしまいます。(30歳を過ぎると涙腺が崩壊する)

しかも。

この階段の所で待っていた王様は、木村氏がブルネイ県知事をしていた時に秘書を務めた『当時の王様の弟』だったのです。戦時中は自分の秘書として共に仕事をしていた当時の王様の弟が、様々な経験、政治的に卓越した見識、そして民主的感覚を身につけ王様になり、ブルネイの発展に献身的に働いておられたのです。

戦時中当時の王様の弟=木村氏がブルネイを再訪した際の王様の名前は、オマル・アリ・サイフディン3世。

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ちなみにオマル・アリ・サイフディン3世元国王の息子が、ハサナル・ボルキア現国王です

 

王様と木村氏の会見は約3時間にわたり(イギリス等の国賓の接待ですら2時間を限度としているのに!)、木村氏にブルネイに来ることを望まれるのならば、希望する地位と職業を用意するとまで仰られたそうです。

王宮で歓待を受け、お土産をもらい、記念撮影をし、再会を約束して、木村氏は帰途につきました。

 

ブルネイと日本の関係

現在、ブルネイの液化天然ガス(LNG)の輸出総量の約6割が日本向けとなっています。日本は長年にわたり、ブルネイの最大の貿易相手国です。
「外務省 最近のブルネイ情勢と日・ブルネイ関係」より

また、東日本大震災の際にはブルネイ政府から100万米ドルの義捐金や、民間から多数の支援を受けました。

旅行で訪れても、ブルネイは親日国であることが感じられます。

 

まとめ

木村氏の話をブルネイのガイドさんから聞いた時に、彼とは血の繋がりも何もない(多分)のですが、ただただ同じ日本に生まれた人間として誇りに思いました。

おこがましいかもしれないけれど。

木村さんの『日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたい』という信念は、確実に実を結んでいると感じます。

 

海外旅行に行くと、過去の日本人が築いた現地での信用・信頼を感じることが多々あります。まぁわたくしの場合、人の築いた城の上で悦に入っているような状態ですが、いいんです。ありがとう、過去の皆さん!グッジョブ!(軽い)

信用・信頼を得るには多くの場合、長い時間と多大な労力、そして確かな実績が必要ですが、信用を失うのは一瞬です。我々は先人が高めた信用・信頼を損なうようなことなく、これからも世界と向き合っていこう、となんだかスケールのでかい話になってしまいましたが、旅行する度に思います。

 

あと単純に、日本人はもっと誇りを持っていいと思います。いや、だって完璧な人間や民族なんて(いるかもしれないけれど)まぁほぼほぼいないじゃん。すごいよ。本当に。闇雲に『俺らすげー!』と胡坐をかこうということではなく、実績や周囲からの評判を知った上で誇りを持って生きていこう。うぇいうぇい。

 

そんな感じで、木村強さん、気になった方は調べてみて下さいね。(無理矢理〆る)

以上、ブルネイと日本の絆の話でした!